BLOG / Kentaro Matsuo

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坂田真彦さん

2022.05.11

坂田真彦さん
アーカイブ&スタイル 代表

 ゆうに20畳を超える広々としたリビングに、数々のヴィンテージ家具が並べられています。ジャンヌレ、ペリアン、ウェグナーなど、いずれも世界の一流デザイナーが手掛けたものです。五木田智央、ステファニー・クエールなどのアートが飾られ、空間に彩りを添えています。一際目を引くのは、B&Oのラックに設えられた本格的なオーディオセットです。

 クラシックなタンノイのスピーカーを中心に、オクターブの真空管アンプ、リンのアナログプレーヤーに加え、デジタルネットワークプレイヤーも接続されています。新旧取り混ぜた、マニア垂涎のコンポーネントです。そこから聞こえてくるのは・・なんと井上陽水!

 ここが、今回お邪魔した、坂田真彦さんのご自宅です。

「オーディオは銀座にあるサウンドクリエイトというショップで揃えました。コンポを入れ替えることも考えて、メンテナンスや下取りもやってくれる店が便利なのです。デジタルにも対応しており、自分のセットに合ったものを提案してくれるから、いろいろと相談に乗ってもらっています」

 サウンドクリエイトといえば、知る人ぞ知る超高級オーディオショップです。(私も入口までは行ったことがあるのですが、あまりにも高そうな商品が多く、そのまま退散しました)。

「よく聞くのは、井上陽水、佐野元春、それから尾崎豊、吉川晃司などもかけます。いわゆる昭和歌謡です。当時のものは曲もいいのですが、制作スタッフもいい人が揃っていて、クオリティが高いのです」

 ちなみにこの取材中もずっとBGMをかけてくれていたのですが、洋楽ではスティーヴィー・ワンダーやイーグルスなど、50代男には感涙ものの選曲でした。細かくボリュームをいじったりして、この人は本当にオーディオが好きなのだなぁと感心した次第です。

 しかしもちろん、(大半の読者がご存知だと思いますが)この方の職業はオーディオ評論家ではなく、デザイナーです。メンズビギ、モーションエレメント、SOPH.、ハロッズ、タケオキクチなど、ちょっと挙げただけでも、キラ星のごときブランドのクリエイティブディレクター(CD)を歴任されてきました。しかもそれぞれのテイストは、大きく違います。

 こんなにいろいろ手掛けていて、混乱しませんか? との問いには、「混乱はしません。逐一ブランドのコンセプトに立ち返って、スイッチを切り替えるようにしているのです」とのお答え。まさにプロフェッショナルです。

そんな坂田さんのデザイナーとしてのバックグラウンドを、幼少期まで遡り辿ってみましょう。

 お生まれは、1970年、和歌山県和歌山市。

「3人兄弟の末っ子で、洋服は常に兄ふたりのお下がりでした。それと親戚がジーンズショップをやっていて、最後の売れ残りをくれるのです。だから、いつもトレンドから遅れていた(笑) 例えば、皆がスリムジーンズやオーバーオールを着ているときに、パッチポケットの付いたフレアージーンズなどを穿かされていた。子供心にも『なんだかおかしいなぁ』と思っていました(笑)。なので自分のお小遣いで、初めてパンツが買えたときは嬉しかった。ラングラーのチノで裏にネル生地がはってある1本。冬しか穿けなかったですけど・・」

 その後中高生の頃には、DCブームがやってきて、友人にパーソンズを譲ってもらったのがきっかけで、お洒落心に火が点きます。

「タケオキクチやトキオクマガイをよく買っていました。映画『アンタッチャブル』やドラマ『傷だらけの天使』のショーケンにも憧れました。音楽ではスタイル・カウンシルやシャーデーといった、アメリカとはちょっと違う世界にハマっていましたね」

 自然とデザイナーへの憧れが募り、まずは絵の勉強をしようと和歌山のアトリエへ通い始めたそうですが・・

「先生は60歳前後の人でした。ある日『将来、君は何になりたいの?』と聞かれたので、『できれば、ファッション・デザイナーになりたいんです』と答えたら、『君、面白いこと言うね』と呆れられた。つまり当時の和歌山では、デザイナーという職業は、それほど現実離れしたものだったのです」

 しかし夢を諦めず、上京してバンタンデザイン研究所へ入学します。

「東京に出てきて、同級生と話して思ったのは、“意外と皆、洋服のことを知らないな”ということでした。当時の私は、ポパイやホットドッグプレスといったファッション誌を読みまくっていたので、知識だけはあったのです。どのブランドがどこから派生してとか、ビームスではこういうモノがセレクトされているとか、全部知っていました。こっそりと“なんだ、俺のほうが詳しいじゃん”とほくそ笑みました。全部耳学問でしたが(笑)」

 学生時代から、バイトでファッションブランドの店員として働き始めます。

「スタートは吉祥寺パルコのメンズメルローズでした。こう見えて、意外と売り上げはよかったんですよ(笑)。私は売るためには、自信を持って店に立つことが大切だと思っていました。だからコーディネイトには、ものすごくこだわっていた。そうしたら、あるクリスマスの前の週、ひとりのお客さんに、『パルコの店を全部見て回ったけれど、オニーサンが一番カッコよかった。だからクリスマスデート用の服を選んでよ』と言われた。これは嬉しかったですね。コーデュロイのジャケットを買ってくれたことを、今でも覚えています。“必ずどこかで誰かが見ていてくれているんだ”と強く感じました。これは今でも信じていることです」

 卒業したらパリに行きたいと思っていたそうですが、運悪く湾岸戦争(1990年)が勃発し、断念。しかし、この間にも、イッセイ ミヤケ、ヨウジ・ヤマモト、カンサイ ヤマモトなど、日本を代表するブランドでバイトをしたり、コレクションのアシスタントを務めたりしていたそうです。

「一番強烈だったのは山本寛斎さんですね。アトリエに『ヤッホー!』と声を上げながら入ってくる。それから、ずーっとハイ・テンション(笑)。今ではああいったタイプのデザイナーはいませんね」

 93年には、メンズビギに入社を果たします。しかしDCブームも終焉を迎え、売り上げは落ち込んでいたそうです。当時ディレクターを任されていたのは自らのブランドTUBEを率いる斎藤久夫さんでした。

「面接で斎藤さんに『何でもやるか?』と聞かれて『何でもやります!』と答えたら、採用してくれました。しかし倉庫管理に回された。ところが倉庫というのは、店で売れ残ったものが戻ってくる場所なので、マーケットで必要ないものが何か、手にとるようにわかるのです。斎藤さんは、オーナーとしてTUBEを育て上げた“叩き上げ”の人で、コストにうるさかった。デザイナーは、やれシルエットがこうだとか、素材がどうとか言っているイメージがありますが、それだけではダメでしょう。斎藤さんには、商売的な視点を徹底的に教えてもらいました。こんな素材とデザインだったら、上代(定価)はこのくらいになるな・・というのが、肌感覚でわかるようになりました」

 私が思わず、それが坂田さんのデザイナーとしての強さですね、と結論づけようとすると、ちょっと考えて・・

「そうかも知れませんが、それが私の弱さでもある。この世界は現実離れした爆発力も大事なのです。結局は光ったもん勝ちですから。そういう意味で、寛斎さんはすごかったですね」と。

 ファッションの世界は、われわれの想像以上に奥深いようです。

 2001年、フリーになると同時に、弱冠31歳で斎藤さんの後を継いでメンズビギのチーフディレクターに抜擢されます。在任12年の間に、ラングラーとのコラボ、ベン ザ ロデオテーラー、ビートルズとコラボしたTHE BEATLES by MEN’S BIGIなど、数々の興味深いプロジェクトを手掛けられました。

「売り上げは伸びましたが、決して順風満帆というわけではなかったですよ。タケ先生(菊池武夫さん)がやっていた全盛期のメンズビギを覚えている古参の社員もいて、煙たがられたこともあります」

 しかし、デザイナーとして評判はうなぎ登りで、モーションエレメント、SOPH.、ハロッズなどのクリエイティブディレクターを次々と任されるようになりました。

「モーションエレメントは、では機能性スーツの“はしり”のようなことにトライしました。ストレッチ素材や反射テープを使って、自転車に乗れるスーツを売り出したり・・。バイイングもやっていて、ミッシェル・ペリーがデザインしたジェイエムウエストンを、機能スーツに合わせたりしていました」

「SOPH.は、“都市での生活をサポートする洗練された日常着”を標榜し、代表の清永浩文さんと一緒に、ストリートとモードの中間に位置するトラディショナルを追求していました。私は男の服というのは、どうあってもトラッドがベースになっているべきだと考えています」

「ハロッズは、ブリティッシュ・トラッドの世界です。英国やイタリアのファクトリーにオーダーしていました。スーツは英国のチェスターバリー、シャツはイタリアのフィナモレなどで作っていましたね。六本木ヒルズにオープンさせたショップは“英国紳士の邸宅”がテーマでした。しかし、ちょっとコストがかかりすぎてしまった。私は英国紳士というものは、実は人には見せられない趣味を持っているものだと思っているのです。そこで店内に飼育ケースをおいて、体長数メートルの大きな真緑色のヘビを飼うことにしました。緑はハロッズのテーマカラーでしたから。湿気を保つためにシャワーマシンを備え付けて、朝と夜に霧を振りかけていました。餌は専門業者が納入するネズミ。あのヘビは高くついたなぁ(苦笑)」

 これらすべてのことを、平行してやっていたのだから、たいしたものです。

 あ、デザイナーとしての活躍話が面白すぎて、今日の洋服についてお聞きするのを忘れていました・・

 セットアップ・スーツは、SOPHNET.(SOPH.の現在のブランド名)。もちろんご自分でディレクションなさったもの。

「コットン×ポリエステルの素材を使って、ワークウエア風としました。インポートで本物のワークウエアも若い人ならいいのですが、オジサンが着るとリアルな作業着のようになってしまうので、お気をつけ下さい(笑)」

 シャツは、アンダーソン&シェパード ハバダッシャリー。

「ロンドンで買いました。極細の巻き縫いと運針数の多さが気に入っています。ここの服はとても好きで、何枚も持っています。とても高いですけどね。しかし、抗えない魅力があって、どうしても買ってしまう」

 鹿の子のチーフは、ハロッズ。イタリアで作ったもの。

胸に差したペンは、モンブランとカルティエ。

「モンブランは作家シリーズのアガサ・クリスティ・モデルです。万年筆とボールペン、2本セットで買いました」

 ベルトは、J&Mデヴィッドソン。

「もう少し太いモデルも持っていて、そっちはジーンズなどのカジュアル用です」

 時計は、ロレックスのオイスタークオーツ デイトジャスト、ブラックダイヤル。1980年代に名匠ジェラルド・ジェンタが手掛けたと噂されている時計です。

「本当にジェンタがデザインしたかどうかはわかりませんが、確かにケースやストラップのデザインはキレイだと思います」

 ストラップサンダルは、パラブーツ。

「この手のものはチャーチやジャコメッティなどからも出ていますが、パラブーツのものは柔らかく、ソールもラバーでカジュアルに履けるのです」

 バラバラの国、年代、ブランドのものを組み合わせて、完璧なコーデとして成立させているセンスは、さすがに超一流だといえましょう。

 ちなみに、もう一枚着て頂いたジャケットは、イタリアの最高級サルト、G.セミナーラ製。これはタイ・ユア・タイの創始者で、かつてイタリア一の洒落者と謳われた故フランコ・ミヌッチ氏から譲ってもらったものだとか。へえ、ミヌッチさんともお知り合いだったですか、と伺うと・・

「いえ、全然(笑)。顔と名前は知っていましたが、話したことはありませんでした。ピッティに行った序にフィレンツェの古着屋を覗いていたら、なんと店内にミヌッチ氏がいて、私物を売ろうとしていたんです。そして私の格好(ジーンズ、アーガイルホーズ、ビットローファー)を見て、『このジャケット、お前に似合うんじゃないか?』と言われたのです。驚いたことにサイズもぴったりで、縁を感じて買うことにしました」

 厚手の生地、ノーベントはミヌッチならではのスタイル・・。胸ポケットのネームタグには、確かに彼の名前がサインされていました。

 古着といえば、坂田さんはデザイナー活動と平行して、ヴィンテージクローズのショップを経営なさっていたこともあります。そっちの方の造詣もハンパではありません。

「古着屋からデザイナーに転向する人が出てきていて、だったらデザイナーから古着屋になっても面白いかなと(笑)。実はデザイナーをやっている傍ら、今ではもう作れなくなってしまった生地や染めの技術などを、ファッションの世界に再び紹介したいと思っていたのです。そこでイッセイミヤケや、かつてはコムデギャルソンなども入っていたモードの中心地、南青山のフロムファーストに、ヴィンテージクローズのショップを出店しました」

 それが、2006年にオープンさせたアーカイブ&スタイルです。開店前の数年は、ヴィンテージクローズのバイイングで、世界中を飛び回っていたといいます。

「イースト・ロンドンの外れにある大きな倉庫のような古着屋で洋服漁りをしていたら、見るからにお洒落な集団が入ってきて、ゴミ山の中から、次々と服をピックアップしていくのです。しかもそれらは、私が決して選ばなかったダサいヤツ・・例えば、80年代のトグルの付いた変なレザージャケットだとか(笑) しかしよく見たら、そのうちのひとりはエディ・スリマンだった! そして次のシーズンのディオールのショーで、そのダサかったジャケットが、ものすごくシャープにアレンジされて発表されているのです。これには驚きました。つまりギリギリのダサいものから、とびきりカッコいいものが生まれる。デザイナーとして開眼させられたようでした」

 その後も、セレクトショップSQUOVAL、タケオキクチ、マンハッタンポーテージ ブラックレーベルなどのクリエイティブディレクターを次々と任されます。八面六臂の活躍は、今でも続いているのです。

 最近では・・なんとラジオのパーソナリティも務められるようになりました。和歌山放送のレディオスナック「Come Together」という番組です。ゴルフウェアショップCLUBHAUS代表の松本抵三さん、アシスタントの小坂都さんを交え、和歌山の魅力を発信するという内容です(全国ではラジコで聴取可能)。

「メディアは持ちたいと思っていたのですが、YouTubeやポッドキャストなどには興味がなかった。なぜなら音楽を聞かせたかったからです。その点ラジオだと、著作権の問題がないので、好きな音楽がかけ放題なのです。スナックなので、テーマは昭和歌謡。佐野元春、美空ひばり、さだまさし、キャンディーズなどを流しています。トークの内容は、本当に他愛のない話。例えば、『和歌山のとある広場には噴水があるけど、最近噴水のある広場って少ないね・・。当時は待ち合わせの目印だったのに』とか(笑)。私自身、コロナ禍で再びラジオを聞くようになりました。目を使わず、“ながら聞き”ができるラジオは、高齢化社会に向けて、また復活してくると思いますよ」

 年をとると、やっぱり故郷を思い出すことが多くなるそう。月イチの収録は和歌山で行われ、その度にご実家に泊まるのが楽しみだそうです。

 そういえば、坂田さんはいまだに関西弁を話されます(このブログのセリフは私・松尾が標準語に“翻訳”したもので、本来は全部関西弁だと思って下さい)。オリジナルを大切にされる姿勢は、そういうところにも表れているのかもしれません。

 卓越したセンスとマルチなフィールド、デザインとヴィンテージに関する膨大な知識、そして飾らないお人柄を持つ坂田さんは、間違いなく最強のクリエイティブディレクターですね。こういう人と酒を飲みに行ける私は、幸せ者だと思います!

 

THE RAKE
https://therakejapan.com/

PROFILE

松尾 健太郎

松尾 健太郎

THE RAKE JAPAN 編集長


1965年、東京生まれ。雑誌編集者。 男子専科、ワールドフォトプレスを経て、‘92年、株式会社世界文化社入社。月刊誌メンズ・イーエックス創刊に携わり、以後クラシコ・イタリア、本格靴などのブームを牽引。‘05年同誌編集長に就任し、のべ4年間同職を務めた後、時計ビギン、M.E.特別編集シリーズ、メルセデス マガジン各編集長、新潮社ENGINEクリエイティブ・ディレクターなどを歴任。現在、インターナショナル・ラグジュアリー誌THE RAKE JAPAN 編集長。

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