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The Breakthrough Company GO 代表取締役 PR / Creative Director 三浦崇宏作品をつくるのではなく、現象を創るのがぼくたちの仕事。

2018.06.11

大手広告会社で、マーケティング、PR、クリエイティブの部門で経験を積み、多くの話題のキャンペーンで、カンヌライオンズ国際広告祭、日本PR大賞等々多くの賞を獲得。その後、2017年1月に「事業クリエイティブ」と「サクセスシェアリング」というこれまでの広告代理店のあり方を変える事業モデルの会社『The Breakthrough Company GO』を設立した三浦崇宏さん。小さい頃のエピソードから、学生時代に夢中になったことや広告業界でのキャリア、そして新会社『GO』の展望について、日差しが心地よい麻布十番のオフィスの屋上でお話をうかがいました。

The Breakthrough Company GO
代表取締役 PR/Creative Director

三浦崇宏さん

1983年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。2007年 博報堂入社。同社、ならびにTBWA\HAKUHODOにて、ストラテジックプラニング、PR、クリエイティブを歴任。2017年独立。カンヌ広告祭・日本PR大賞・フジサンケイグループ広告大賞・CampaignASIA Young Achiever of the Year2013・ADfest・2016年カンヌライオンズクリエイティブフェスティバル ゴールド(ヘルスケアPR部門)・グッドデザイン賞金賞 他受賞多数。2017年1月 『The Breakthrough Company GO』を設立。安室奈美恵を起用したH&Mのキャンペーンや、docomoのカーシェリングビジネス 「dカーシェア」等をプロデュース。
三浦崇宏twitter
三浦崇宏INSTAGRAM



家庭環境の激変の中、柔道と文学が自分の骨格に。

--- 小さい頃のことを聞かせてください。

東京の渋谷で、1983年に生まれました。父親はダンサーを経て美術商を始めたような人で、母親はオペラ歌手でした。幼稚園から私立の暁星学園に通い、小さい時には父親がフランスのモネの生家に連れて行ってくれたり、本物の美術作品が家に数多くあるような恵まれた環境で育ちました。

ところが、自分が小学校5年の頃、バブル崩壊の波を受けて父親の事業が破綻して、板橋の団地に引っ越すことに。家の大きさも3階建ての一軒家から、4畳間と6畳間しかないような集合住宅で暮らすことになり。眠れないほど悩んだのが、裕福な家庭の子供が多かった学校の仲間に、一夜にして激変した自分の環境の変化を、「伝える」のか、「隠す」のか、という選択で。

考え抜いた結果、クラスで、「家が破産しちゃってさ!やばいんだよ、、、今日から貧乏なんだよ!」と明るく、少しおどけてみんなに伝えたら、爆笑が起きて。暗く受け取られることもなく、仲間たちと今までと変わらない関係で過ごすことができました。

この経験は自分にとってとても大きなことで、ここから、「喜怒哀楽、自分の人生に起きたことは、すべて面白い物語だ」と考えるようになりました。『Life is Contents(ライフ イズ コンテンツ)』という、今の自分の人生哲学になっています。

--- 学生時代熱中したことは?

親も協力してくれて、中学、高校はそのまま私立の暁星学園に通うことができて、柔道部の主将を努めていました。進学校でスポーツ重視の環境ではない中、「練習時間は短くしたい」、だけど、「強豪校の選手に負けたくない」という、一見相反する課題の解決を真剣に考え始めました。

同じ柔道というフィールドでは、練習量に勝る選手達には絶対的に敵わないと思い、レスリング、ブラジル柔術、総合格闘技のジムに通い始めて柔道では使わない、でもルール上許される技術をめちゃめちゃ学びました。『High quality(ハイクオリティ)よりもNew content(ニューコンテンツ)』みたいな。これが面白いように技が決まるようになり、結果、当時の学校では初めて、全国大会にも出場できました。「アイデアで現状の課題を解決する」という今に繋がる発想法は、この時期に培われたように思いますね。

あと、実は「小説家になりたい」という思いはずっとうっすらと持ち続けていて。小学生の頃から村上龍、隆慶一郎、ルクレジオ、ポール・オースターとかの作品を読み漁っていました。早稲田大学の第一文学部に進み、実は小説を書いてみたことがあったのですが、、、、ヤクザと障害を持つ女性の恋愛物語だったんですけど。正直ダメでした。社交的で、仲間好きで、寂しがりという自分の気質は、ひとりで何かに向き合うという行為には適さず、「みんなで何かを成し遂げる」という方が自分に合っていると思い知らされました。

ただ、小説を書くという行為は、世界のあるべき姿を物語で提案するという行為だと思っていて、今の自分にとって、その時代の空気とか、社会のあり方に対して何か意味のあることを提案しないといけないという、企画を考えるときの姿勢の骨格になっているように思います。



---大学時代のエピソードはありますか?

ベンチャーブームの中、学生向けの起業イベントのプロデュースをやったり、企業がスポンサードする学生向けのイベントを仕切ったりして、ビジネス的にも報酬を得ていて、大学内でも知られた存在でした。

卒業が近づき、このままイベント会社を立ち上げて、ビジネスを始める選択肢もあったのですが、もっと、広く世の中に発信できるような、社会的にインパクトを与えるような事がしたいという気持ちが強くなり、テレビ局、広告会社に興味を持つようになり、3年生の時は広告会社のインターンも経験しました。

テレビ局か広告会社で迷ったのですが、当時、インターネットの興盛期でもあり、ひとつのメディアに縛られず、CM、新聞・雑誌、イベント、WEB等々多くの選択肢を組み合わせて企画を組み立てられる広告会社が自分に向いていると思うようになり。最終的に、「目的が自由で、手段が限られるテレビ」か、「目的が限られるが、手段が自由な広告」か、という風に突き詰め、広告会社に就職することにしました。



PR発想のクリエイティブディレクター

--- そして博報堂に?

入社までは良かったのですが、クリエイティブ局志望だったのが、配属がマーケティング局で。新入社員のくせに生意気にも上長に「こんな地味なセクションに、僕のようなイケてる新人が配属されるなんて、サプライズ人事ですね!」とか毒づいてしまい、、、一発で嫌われ、半年くらい干されて仕事がない状況に。

入社早々から窓際社員のような状態の中、会社の業務とは関係無いスタートアップのコンサルティングや、ラジオの放送作家をして、日々を過ごしていました。心の広い上長で、そんな自分の姿を、見て見ぬふりをしつつ、いつか会社の業務の大切さに気づくと思っていただいていたんですよね。

そうこうしているうちに、同期の活躍などが耳に入ってきて、最終的には僕の方が、「もしかして大きな仕事のチャンスを自ら放棄しているのでは?」という思いにかられ、上長に、土下座して涙を流して、「チームに入れてください!仕事をさせてください!」と頼み込み。以降は3年間、大手飲料メーカーのキャンペーン等々、マーケの業務に邁進しました。

--- その後、マーケティングから、PR、そしてクリエイティブへ?

3年の人事ローテーションという事もあり、PR戦略局に異動になりました。そこでも、自発的に仕事に取り組み、比較的自由に動かせていただき。経験も無いんで、失敗もしつつ、たまにうまくいったりして。あとメディアの方々とも交流が盛んで、充実した日々でした。

それから、「イケダン(イケてるダンナ)」をコンセプトに、女性誌『VERY』とコラボした、日産のラフェスタという車のキャンペーンの評判が良くて、宣伝部の人に気に入っていただいて、日産のコミュニケーションを全部担当する『TBWA\HAKUHODO』に出向することになりました。

そこでは、クリエイティブチームのひとりとして、PRの領域も視野に入れた、「インテグレーテッドコミュニケーションプランナー」という少し長い肩書きを勝手に作って、日産の業務を中心に、アディダス、H&M、マクドナルド等の業務を経験させていただきました。

この時期に、PR発想を起点にしつつ、クリエイティブディレクターとして、コミュニケーションの全領域をコントロールしていくという、今の自分のスタイルが確立できたように感じています。

---三浦さんのスタイルについてもう少し教えていただけますか?

クリエイティブの人が陥りがちなのですが、アウトプットを「作品」と認識して、アート作品のように完成度にこだわり、本来の「新しい価値を伝える」とか「態度変容を起こす」というような、広告コミュニケーション本来の目的からずれてしまう事があります。僕はクリエイティブが目指すのは、静的なアウトプットでは無く、それが人々にどのように伝わり、どのように行動を変えていくか、という動的なムーブメントだと考えています。

きっかけになった仕事でいうと「土のフルコース」というプロジェクトです。2012年に、園芸資材を扱うプロトリーフ社をクライアントとした、「3.11以降の土の安全性を広く浸透させたい」というプロジェクトで、一流フランスレストランの『ヌキテパ』のシェフと組んで、土を食べる「土のフルコース試食会」を実施しました。

「土を食べる」という意外なチャレンジが、Webニュースから、テレビの地上波まで様々なメディアに紹介され、土の安全性が広く一般の方に浸透するきっかけになりました。このプロジェクトは、2013年のカンヌライオンズのPR部門で受賞することができました。

このような、社会、人々に対して情報がどのように拡散していくか、いわゆる「PRの視点」を持ちながらクリエイティブ、コミュニケーションを組み立ててゆく考え方を「作品をつくるのではなく、現象を創るのが仕事」という言葉で表現しています。



「事業クリエイティブ」と「サクセスシェアリング」を2本の柱に

---独立はどのような思いで?

博報堂では、収益の中心はメディアバイイングのマージン、いわゆるコミッションで、クリエイティブ、マーケ、PR部門などのスタッフ部門の費用は、クライアントにとっては、サービス的な位置付けになりがちでした。言い方が悪いですが、スナック菓子の”オマケ”のような扱いですね。TBWA\HAKUHODOは外資の広告代理店に多いフィー制でしたが、こちらは、一部の優秀な人が、多くの人を賄うようなビジネスモデルに感じました。

どちらの収益モデルもいずれ構造的に厳しくなっていく事が予想できたので、新しい収益モデルを作りたくて。クライアントの成長に応じて一部をシェアするモデルであるレベニューシェア、ストックオプションを広告の仕事でも実現したいと思いました。

また、銀行やコンサルタントの人は、クライアント企業の経営層と、事業全体を俯瞰しながらビジネスを進めるのに対し、広告会社は、企業の広告宣伝部が窓口で、広告宣伝費という企業活動全体の予算の中の、ごく一部の予算でしかビジネスをしていないと感じていました。仮に、広告予算が事業予算の20%と仮定すると、広告会社は20%の専門家に過ぎません。

我々広告クリエイターのスキルである、「クライアントの本質的な課題を発見し」、「社会の機運に合わせてアウトプットし」、「事業の価値を上げてゆく」、というプロセスは、20%の広告という領域にとどまらず、もっと事業全体にとって意味のあるものになるはず、という僕の仮説があって。検証したいとはずっと思っていたんですよね。

クライアントとともに、ゼロからビジネスを作っていき、その利益を両者で分配するような、『事業クリエイティブ』の会社を作りたい、また、大手広告会社では、取り組むのが難しい、収益構造変化の先駆けとなるモデル「サクセスシェアリング」を形にしたい、という思いが強くなり。

電通でメディア部門にいた福本龍馬と、外資系金融機関出身でファイナンス担当をしていた松浦由紀、相談役として元吉本興業でナインティナインやロンドンブーツ1号2号のマネージャーを担当したのち、QREATOR AGENTを立ち上げた佐藤詳悟が参画してくれ、2017年1月、『The Breakthrough Company GO』という会社を設立しました。

【オフィスのベランダには、リラックスしたい時に横たわれるハンモックが。】



--- 『GO』の近況について教えてください。

GOの仕事は、大きくは『大企業の新規事業のコンサルティング』、『スタートアップのブランディング』、『話題になるキャンペーン』の3パターンですね。

例えば『大企業の新規事業』ですと、docomoのカーシェリングビジネス 「dカーシェア」、三井不動産の法人向け多拠点型シェアオフィス 「WORKSTYLING」。『スタートアップ』ですとウェアラブルトランシーバー「BONX」 や、毎月定額でコネクテッドカーに乗れるサービス 「SmartDrive Cars」。『話題になるキャンペーン』ですと H&Mの安室奈美恵を起用したプロモーションでしょうか。

【「H&M」が歌手の安室奈美恵さんに宛てた手紙をモチーフにした新聞広告】

「事業クリエイティブ」と「サクセスシェアリング」を2本の柱に、設立以来、数多くのトライ・アンド・エラーを繰り返しています。失敗もたくさんあります。だけど、広告会社の未来を、自分たちが創るのだという自負があるので、チャレンジの数だけ成長していると実感しています。2017年1月の会社設立以来、それらを押し進め、4人でスタートした会社は、今(2018年6月現在)、社員数11人になりました。

--- アーティストとの交流も多いと伺っていますが?

『GO』がプロデュースさせていただいているアーティストが、 古賀崇洋さんという、焼き物に新風を吹き込む作品で世界でも評価を受けている陶芸作家。千利休の美意識をリスペクトしているからこそ反利休的なアプローチを取るという、ギラギラで、スタッズをまとわせ、視覚的にも触覚的にも鋭く迫ってくる「トゲの生えた器」、「装着可能なマスク型の器」を手がけた作家です。

【古賀崇洋さんの作品、ストリートの空気を持つ器 SPIKY CUP I】

広告のクリエイターにとって、アートの世界、アーティストとの交流はとても大切なことだと考えています。自分としては、広告クリエイティブは「課題の解決」で、アートはそれに対して「課題の発見」と定義していて。

アーティストの敏感な感性が、まだ言語化されていない時代の空気の変化や、人々の心象風景をアート作品という目に見えるものに結晶化させている。アートに触れることで、世界が、社会が、人が向かっている方向を、感覚的に理解できるのでは、そう考えています。

--- これからの野望、展望について教えてください。

ひとつは、『GO』がピーター・ティール、イーロン・マスクのように、彼らが出資しただけで、その企業の価値が上がるような存在になること。誰も知らないけど、社会を変える可能性があるスタートアップが、僕らがサポートすることで、その会社に期待が集まるようなことになればいいと思います。

あとはレベニューシェアを軸にした「サクセスシェアリング」という収益モデルを広告業界のスタンダードにしていきたいですね。クライアントとともにリスクを取りながら、事業を成長させていくことがクリエイターの基本的なスタンスになればいいと。

『実態経済から期待経済へ』とよく言っているのですが、変化の早い時代は、過去の資産や実績よりも、未来に対してどのようなチャレンジをしているのかが問われます。前向きに挑戦し続ける姿勢こそが、人々の期待を生み、それがそのまま企業価値になっていく。

こんな時代の最先端でリスクを背負って走っているクライアントに『GO!』と背中を押す為には、自分自身が常に闘っていないと信頼されませんよね。数多くの挑戦をし、どこよりも早く、失敗も含めて、前に進んでいきたい。自分自身にも『GO!』と言い続けていきたいですね。


CREDIT

Interview & Photo : SUMIYA TAKAHISA

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