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編集者・ライスプレス代表 / 稲田 浩「フードカルチャー」という、ボーダレスな領域の新たなうねり。

2017.03.08

ロッキング・オン社にて、新雑誌創刊に続けて立ち会い、カルチャー誌「CUT」、洋楽誌「rockin’on」では副編集長として活躍後、退社。自ら創刊編集長としてカルチャー誌「EYESCREAM」を12年間に渡り作り続けてきた、編集者 稲田浩さん。2016年「EYESCREAM」編集長を退任し、自ら出版社「ライスプレス」を立ち上げ、フードカルチャー誌「RiCE」を創刊に至った。稲田さんの今までのキャリアと新たなプロジェクトについて、自らプロデュースで開催中の藤代冥砂写真展「Wallall」の会場EDIT TOKYO(銀座ソニービル6階)で、お話を伺いました。

編集者・ライスプレス代表

稲田 浩さん

ロッキング・オン社にて、「ROCKIN’ON JAPAN」「bridge」「H」「CUT」「rockin’on」編集部に勤務。2004年カルチャー誌「EYESCREAM」を創刊。2011年ファッション&ジャーナル誌「SPADE」を創刊。 2016年4月、12周年記念号をもって「EYESCREAM」編集長を退任後、ライスプレス株式会社を設立。10月にフードカルチャー&ライフスタイル誌「RiCE」を創刊。2016年末に「SPADE」第3号を発売。

| 3月頭より代官山蔦屋書店で「RiCE」のポップアップを3〜4週間開催。蜷川実花、二階堂ふみ、藤代冥砂、佐内正史など連載陣の書籍のほか、お米やふりかけなどの食品、お膳など食器も販売。さらに特製Tシャツやトートバッグなども販売予定。 |



様々な表現との出会い

--- 小さい頃は、どんな子供でしたか?

大阪の富田林市で1969年に生まれ、そこで育ちました。富田林ってPL学園のある地元で、清原と桑田のKKコンビは学年が一個上。当時の高校野球では大スターでしたね。難波とか大阪の中心地まで出るのに、急行で30分くらいの距離で、大阪のベッドタウンでもあり、近所には団地が多く僕自身も団地っ子でした。

子供の頃に母親が地元の市会議員に当選して、五期くらいやったのかな。それもあって人の出入りは激しかったけど、夫婦共働きのいわゆる鍵っ子という環境で育ちました。家で過ごすか、学童保育クラブに顔を出すかして、近所の友達と遊んでました。一人で家にいる時間は手塚治虫全集を読んだりしてたかな。なんかじっとしてるのが苦手な子で、学校の成績もパッとしなかったんじゃないかなぁ。

父が映画好きで、よく難波とかの映画館に連れて行ってくれたのを憶えています。『スター・ウォーズ』シリーズとか、結構なイベントでしたね。映画が終わると、トンカツとか洋食屋みたいなところで食事をするのがいつもの流れで。「映画を観て美味しいものを食べる」という一連の行動が、小さい頃の自分の中の「幸せなイベント」でもあり、映画好きはそこから始まったように思います。

中高生になると、レコードと映画と本と服が四大興味の対象で、その四つをぐるぐるしてた気がする。他にも情報を拾ったりする中で、そのうち演劇にもハマって。野田秀樹さんの夢の遊民社や第三舞台とか、東京で盛り上がってた新しい舞台がちょうど大阪にも進出してきたタイミングだったんです。中でも衝撃を受けたのが、唐十郎さんの原作を、俳優の石橋蓮司さんが演出して、ご自分の第七病棟という劇団で公演した「ビニールの城(1985年)」という舞台で、「こんな世界があるんだ!」という衝撃を今でも覚えています。

--- 大学時代は東京ですか?

やっぱり演劇も含めて東京からの“風”を強く感じていたので、そういうものにいっぱい触れられる東京に行こうと。早稲田大学に進学して、そんなに深く考えずに、第一文学部の哲学科を選択しました。何か“哲学”って、当時ニューアカの流れもあって言葉の響きがカッコよかったのと、哲学書は今集中して勉強しないと将来も絶対読まない気がして。文学部に入っておきながらですが、小説だったら勉強しなくても好きなら読むだろうと。とは言え、サボりがちな学生だったので、今の自分に哲学がどこまで影響してるかは、疑わしいですね。

当時は漠然と“映画監督になりたい”というような野望を抱いてました。それで当時、シネマ研究会ってサークルに入ったりして。そしたら当時の早稲田には筋金入りのシネフィルがいっぱいいて。年間600本以上の映画を劇場で観てたり、高校時代に撮った映画でPFFに入選してたり、そんな奴らが何人もいる。今思うとちょっと異常な場だったんですが、当時の自分にとっては井の中の蛙だったことを思い知らされましたね。

とはいえ映画は好きだったので、名画座を含めて浴びるように見てました。寝転がって観るようなミニシアターに足を運んだりして、小津安二郎や、ヤクザ映画、ニューシネマのような旧作の世界や、単館系の劇場も元気だった頃なので、当時流行っていた、ヴィム・ヴェンダース、ジム・ジャームッシュ、スパイク・リー、デビッド・リンチなどの同時代の映像世界に触れていました。当時「リュミエール」っていう蓮実重彦さんが責任編集してる映画雑誌があって、それの影響も大きくて。そのうち蓮実さんの批評本も読んだりしていく中で、映画そのものより以上に「映画に関する本」に惹かれる傾向も出てきて。だんだん本を作る編集者っていう職種に興味が惹かれていった感じです。

映画の情報を入手するのに、いろんな雑誌にも触れていました。「ぴあ」より「シティロード」が好きだったな。当時は「i-D JAPAN」、「03 Tokyo calling」のようなエッジの立った雑誌も多く、その世界観にも憧れを抱くようになって。自分の中に漠然とですが、“雑誌”とか“編集者”に対する興味が強くなっていったように思います。



雑誌創刊というダイナミズム

--- 最初から就職は出版社ですか?

社会人になってまず最初に入社したのが、シンコーミュージックという音楽系の出版社で、営業のセクションで1年ほど働きました。そのあと、邦楽誌「B-PASS」の編集に移ったのですが在籍はほんの一瞬で。異動のタイミングで平行して受けていたロッキング・オンの社員募集で採用が決まったので、転職しました。

半年ほど、「ROCKIN’ON JAPAN」の編集部に在籍した後、社長の渋谷陽一さんが中心だった、新雑誌準備室に異動して。その時、渋谷さんが掲げていた2つのコンセプトが、「個人誌」と「個人情報誌」で、「個人誌=bridge」、「個人情報誌=H」として創刊されました。

個人誌の「bridge」は、まさに“渋谷さんの個人誌”で、佐野元春さんや、浜田省吾さんにインタビューをしつつ、その場で渋谷さん自身が写真撮影するというスタイルでした。当時、コンパクトなのに性能やレンズの質の高いCONTAXのような機種もあって、渋谷さんとミュージシャンの関係性がすでに出来上がっているので、彼らの自然な表情を撮影することもでき、見たこともないような写真がどんどん上がってくる。当時としては掟破りだったと思うんですが、渋谷さんも周りのプロのカメラマンさんから褒められてたようです。

個人情報誌の「H」は、NYの情報紙Village Voice(ビレッジ・ボイス)等がモデルで、読者がコミュニティーを求めて投稿できたり、アイテムの交換ができたりするような誌面を目指してました。ただ、それだけでは雑誌としては厳しいので、インタビューやカルチャー情報を盛り込むことになり。そのコンセプトを決める編集会議で、なんとなく「おしゃれ」と「エッチ(H)」が両立するような雑誌ってないよね、という話が盛り上がり、響きも、ビジュアルインパクトもある「H」が誌名になりました。あ、そんな風に雑誌の名前って決めていいんだ!っていうのがすごく面白く感じて。いまだに焼き付いてますね。

この二つの雑誌の創刊に関わらせていただいた期間は2〜3年ほどだったのですが、編集者というキャリアの若いタイミングで、コンセプトを定め、誌名を決め、束見本を作り、コーナーを作る等々“雑誌が立ち上がる瞬間のダイナミズム”に間近に触れることができたことは、その後の雑誌編集者としての自分のキャリアにとっても貴重な経験でした。

撮影協力:藤代冥砂写真展「Wallall」の会場EDIT TOKYO(銀座ソニービル6階)

--- その後「CUT」編集部に?

「CUT」では、自分の映画好きが雑誌の方向性とはまったこともあり、モチベーション高く仕事に取り組めました。当時、カルチャー誌ブームとも言えるような状況もあり、飛び込みで営業してハイブランドの広告が決まったり、部数も伸びていったりで、やったらやっただけ手応えがありましたね。

洋画では、現在もトップランナーである、ジョニー・デップ、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット等々がブレイクしたころで、邦画も俳優では、豊川悦司、渡部篤郎、作品では「スワロウテイル」に代表される岩井俊二監督作品などが人気を博していた頃で、話題に事欠かない時代でした。

--- 「CUT」時代に印象的だったことは?

まずは、1996年に公開された映画「トレインスポッティング」の大特集。イギリスの若者たちの世相を描いた文学作品の原作を、ダニー・ボイル監督がスタイリッシュに映像化して大ヒットした映画でした。音楽も当時のセカンド・サマー・オブ・ラブの流れの中、アンダーワールドやイギー・ポップ等の楽曲も使われたサントラ盤もセールスを伸ばしていき、誌面と世相がシンクロしているような、大きな反響を感じました。21年ぶりに続編が今年、公開されるんですよね? 楽しみな反面、もうそんなに経ったのかぁと感慨深いです。

もう一つは、当時19歳だった、ハーモニー・コリンの脚本を、伝説の写真家ラリー・クラークが監督、映像化した「KIDS」。ニューヨークに住むストリートキッズ、スケートボーダーのライフスタイルを、AIDSの問題にも触れながら、ドキュメンタリータッチで描き、オルタナティブミュージックシーンも巻き込みながら、センセーショナルな盛り上がりを見せました。その後、ハーモニー・コリンは、アメリカ中部の停滞する田舎町の底辺の人々の日常を、デスメタルをバックに、コラージュのような手法で描いた「ガンモ」を監督したのですが、その作品にも圧倒されました。ハーモニー・コリンは、ニューヨークに取材に行かせてもらったし、彼の書いた小説「クラックアップ」を翻訳出版したりと、当時はかなり入れ込んでました。

あとは、自分自身大好きだったビースティ・ボーイズでしょうか。彼らは、もともとはハードコア・パンクだったのですが、白人でありながらヒップホップでシーンに飛び出し、パンクロック、ジャズ・ファンクなど様々なスタイルの楽曲を発表しつつ、「グランド ロイヤル マガジン」というカルチャー誌も発行したり、チベタンフリーダムコンサートを主催したりと、まさに時代を作るかのように横断的な活動をしていました。取材でL.Aにある彼らのG-SONスタジオに訪ねて行きましたし、彼らが来日した際、日本にカメラマンとして滞在していたソフィア・コッポラと、彼らのコンサートの楽屋を訪ねたりして。今思うと特別な経験をさせてもらったなと思いますが、当時はそういう空気だったんですよね。

共通して言えることは、映画や音楽を核としつつも、“ジャンル”や“壁”がどんどん壊れて、それを越えて周辺のファッション、デザイン等々、ライフスタイル全般に影響を与えたムーブメントが多く生まれた時代であり、当時の映画専門誌や音楽専門誌では、これらの作品の起こした同時代の多層的な“熱”や“うねり”を正確に伝えることが難しく、まさに「CUT」のような、とんがりつつメジャーなカルチャー誌の特性が十分に活かせていたんだと思います。

あとは、カメラマンでは平間至さん、ホンマタカシさん、高橋恭司さん、長島有里枝さん、佐内正史さん、藤代冥砂さん、笠井爾示さん、HIROMIXさん……、皆さん当時20代あるいは30そこそこだったと思うのですが、そんな新しい才能を持つ方々が、いわゆる写真ブームで活躍の場を広げている頃で、そんな人達と一緒に誌面作りができた事も貴重な経験でしたね。

--- その後、「EYESCREAM」の創刊へと?

その後洋楽誌「rockin’on」に異動して2年経った頃、ロッキング・オンでの在籍がちょうど10年で。新雑誌の創刊や、映画、音楽シーンの取材等々、様々な経験をさせていただいて、自分の中で何かが一回りした気がして、退社を決意しました。

「こんな雑誌を作りたい」というイメージは強く持っていたのですが、退社当時は具体的な話もなく……。で、半年ほどは海外で過ごしたりした後、雑誌作りの動きを始めた中で、運良く人の紹介もあり出資先が見つかって、以前から温めていた誌名で、「EYESCREAM=”目を騒がせる”ファッション&ポップカルチャー・マガジン」の創刊が決まりました。

創刊号は2004年の4月に発行で、ニューヨーク特集でした。先ほどお話しした映画「KIDS」の公開が1995年で、「NY 95-04年」と題して、9・11を挟んだ10年間のニューヨークのカルチャーシーンの変遷を軸に構成しました。あらためてハーモニー・コリンやテリー・リチャードソンを取材したり、当時まだ登場したばかりのライアン・マッギンレーを取り上げたり。

「EYESCREAM」を創刊する時に、様々な壁を超えた、ノンジャンルのカルチャー誌を作りたいという強い思いがありました。ニューヨークには、ファッション、アート、映画、音楽等々が並列でいながらお互いに繋がりを持っているような状況があり、そんな空気感を誌面に詰め込みました。創刊号には新雑誌でやりたかったことが、すべて出ているという気がします。それ以降12年間、ファッション、アート、映画、写真、文学、インテリア……様々な特集を、「EYESCREAM」なりの切り口で取り上げていきました。

写真奥から「ROCKIN’ON JAPAN」「bridge」「H」「CUT」「rockin’on」「EYESCREAM」



手の届く範囲から生まれる新たな試み

--- ご自身の会社「ライスプレス」を立ち上げた経緯は?

雑誌「EYESCREAM」を年12冊、12年間途切れなく発行し続けてきて、自分の中で“やりきった感”のようなものが生まれてきたのと、次にやりたいことが見えてきたのが大きいですね。あとは、ずっと組織に属したり、出資を受けたりしながら仕事をしてきた我が身を振り返り、「そろそろ自分でやってもいいかも?」、そんな気持ちも芽生えてきて。

きっかけの一つが、カメラマンの若木信吾さんとお話しした際、若木さんが写真家というお仕事を軸にしながらも、映画監督をやったり、ヤングトゥリー・プレスという出版社を運営されていて、郷里の浜松市には “BOOKS AND PRINTS” という書店まで出店されていることを知りました。

若木さんの「手の届く範囲で始めればいい」、「仕事は仕組みだから、それを学び、好きなことを形にすればいい」、そんな言葉が心に残り、自分も「手が届く範囲で出版社を作ったらどうなるだろう?」と考え始めて。若木さんのヤングトゥリー・プレスを自分に当てはめると……って考えた時に、稲田という自分の名字から「ライスプレス(Rice Press)」という名前が浮かんで、会社を設立しました。

--- そして、食をテーマにした雑誌「RiCE」の創刊へ?

編集の仕事をしていると、ファッションの展示会とか、新しいショップのオープニングにお邪魔したりするんですが、おしゃれなケータリングだったり、コーヒースタンドが併設されていたり、どこか食の要素が取り入れられていたり、映像の世界でも「eatrip (イートリップ)」というドキュメント映画が作られていたり、食の世界の盛り上がりを肌で感じるようになり。

そんな頃、下北沢に自転車がディスプレイされている不思議なレストラン「サーモン&トラウト(Salmon & Trout)」に通っている中で、オーナーでありフードライターの柿崎至恩さんと、ジャーナリストを父に持つシェフの森枝幹さんとの交流が生まれました。森枝さんのホームパーティーに呼んでいただいた際、海外のフードカルチャー誌「ラッキーピーチ(LUCKY PEACH)」を見せていただき、日本ではまだまだ数もバリエーションも少ない、「食」をテーマにした雑誌の可能性が具体的にイメージできました。

そんな出会いもあり、かつてファッションとか、音楽の世界に多くいたような、ネットワークや発信力を持った才能ある人たちが、今、食の世界に増えていて、このネットの時代では、インターナショナルにも繋がっているように思えてきた。そんな彼らを巻き込んで、その動きに並走するような雑誌を作りたいと。

誌名は会社名のライスプレスに通じつつ、日本の食文化の象徴でもある「RiCE(ライス)」に決めました。食というテーマは、国境も、性別も超えるし、エイジレスでもあるので、日本語だけでなく、英語も併記して、日本から海外への発信も意識しています。

写真左からSPADE 3号RiCE 創刊号RiCE 2号

--- 今後の、稲田さん、「ライスプレス(Rice Press)」について教えてください。

雑誌「RICE(ライス)」は、創刊号が「米」、2号目が「魚」をテーマに発行されていて、季刊で発行されていきます。今作っている第3号は「カレー」の特集を予定しています。電子版は本誌よりも金額を下げて500円にして、より広い層に読んでいただきたいと思っています。現在オンラインは構想中で、本誌とはまた違った形のものにしていきたいですね。また、2016年末に詩人アレン・ギンズバーグの特集で第3号を発行したファッションカルチャー誌の「SPADE」は、年2回のペースで継続してライスプレスから発行していきます。

ライスプレスは、出版社という位置付けだけでなく、制作機能もあるので、POLA発行のフリーペーパー「WE/」の受託制作や、現在、「#TATERUガールズ ~君のいる部屋~」と題した、メンズ誌「OCEANS」初の女優やモデルをフォーカスする連載ページの企画をお手伝いをしたり。蜷川実花写真展「IN MY ROOM」や、藤代冥砂写真展「Wallall」の制作も行っていて、イベントにも携わっていきたいですね。

雑誌編集を通じ、様々なカルチャーが、壁や垣根を越えて、ひとつのムーブメントになっていくダイナミズムを、若い頃から目の前で体感することができました。今度は「食」、「フードカルチャー」というボーダレスな領域で、雑誌「RiCE(ライス)」から、新たなうねりを起こせたら、そんなことを考えています。


CREDIT
Interview & Photo : SUMIYA TAKAHISA

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